その日、ラグナがベッドに倒れ込んだのは、しらじらと夜が明け始める時間だった。
 アタマの固いくそじじいを納得させる術をあれこれ考えて、すっかりくたくたになった脳味噌が睡眠を求めている。
 ちまちま重箱の隅をつつくようにあげ足をとられ、はっと気がつけば全否定されている。そんなことがざらだ。念入りに検証したラグナの論は、そもそもの前提からくつがえされ、またいちから新しい論文を書かなければならなくなってしまった。くやしいが、ラグナがこの学園にいるかぎり、教授という名誉ある肩書には勝てない。
 とにかく眠ろう。3時間……いや、2時間か。だれにも邪魔されない休息はいらだつほどにみじかく、横になってしまうと、自分に毛布をかけるのもおっくうなくらいだ。風邪をひいては元も子もないが、いったん目を閉じてしまったラグナには無理な相談だった。
 そうして訪れた目覚めは、休息を得た充実感とは程遠いものだった。肌寒く、ひりひりと喉が痛んだが、ゆっくりと身体をあたためる余裕もない。何度も読み返し、時間ぎりぎりまで推敲を繰り返した論文を教授室へ持ち込んだが、検証が不足しているため評価は期待できないと読む前から線を引かれてしまった。
 いつものこととはいえ、やはり面と向かって言われるとつらい。ひとり、研究室に戻るとさらにくやしさが身にしみた。ラグナは深いため息をひとつついて、ベッドか机かしばらく逡巡したが、結局は机に向かうのだった。たくさんの時間が、なかったことになってしまっても、研究をやめることはできなかった。
 ラグナは数少ない女性研究者だ。
 この国の、13の領から成るフラムスティードとよばれる小さな国の風習や伝統を研究対象としている。まだまだ新しい分野のため、やりたいことも、やらねばならないことも山積みで、証拠さえあればいくらだって教授の論理をひっくりかえすことができるという魅力がある。
 しかし、現在に至るまでの生活が、書物や石碑に残っていれば検証も楽なのだが、まだまだフラムスティードの識字率は低い。王城のある中央10領をぐるりと取り囲む金融や法、医療が発達したそれぞれの領の歴史や祭事は文字として残っていても、そのさらに外側の領――農業や鉱物だとかを生業とする領の民はかんたんな読み書きもできない者が多い。そもそも、子どもに教育を行うことが重視されていないのだ。そもそも、この7領にしか学問を学ぶことのできる場所がないというのがまず問題なのだ。
 しかしそれは、ラグナの課題ではなく、国の課題である。
 文字で残っていないとなれば、現地へ赴き、口承で受け継がれているものを頼りにするしかない。それだって尾ひれ背びれはついているにしても、れっきとした手がかりなのだ。
 ラグナ自身も、最近までは実地調査のため、いくつかの仮説を引っ提げて地方を巡っていた。それなのに、このていたらくである。決して遊びに行っていたわけではない。それはラグナ自身がいちばんよくわかっている
 ぱらぱらと自分が書いた成果を読み返して、ラグナはため息をついた。今になって黙殺していたひずみが嫌になるほどわかる。早すぎたのだ。今回発表しなくても、次の機会はその日付にいたるまで、きちんと決められているのに。これが最後ではないというのに。もっときちんと整理して、じっくりと練ればこんな失敗はなかった。なぜこんなに焦ってしまったのだろう。私はそんなに認められたかったのだろうか。そう考えて、ラグナは自分を恥じた。
「ラグナいるの?」
 研究室の扉越しに、良く知る声。ラグナは机から顔を上げた。
「います」
 大きく伸びをして、ようやくの思いで立ち上がる。
 ラグナの城でもあるこの研究室には、めったに人は入れなかった。研究の成果を奪われるだとかいう不安からではなく、たんに散らかっているからである。
 ラグナも見た目は立派な女の子である。体裁として、学園の近くに部屋を借りているものの、3日に1度しか帰らず、ほとんどの時間をこの研究室で過ごしている。それなのにこの散らかりようといったらひどいものだ。泥棒にやられたか、壮絶な夫婦喧嘩の後のよう。これは研究者以前に女として問題だとラグナ自身もわかってはいるのだが、危機感は薄く、優先順位もひくい。現にいまも、この惨状を目の当たりにしているというのに、そう気にはならないのだから。
「フレイ、どうしたんですか」
 適当にくくっていた髪をおろして、外に出る。
 ひんやりと薄暗い廊下に、 「いや?ただ、またご飯食べてないんだろうなぁと思って」
 学園始まって以来の天才と呼び声高い彼は、まったく臆したところがなく、屈託なくにこにこしていた。つられてラグナも微笑む。彼のストレートな優しさが嬉しかった。完全にまいっているときにそっと手を差し伸べるタイミングの絶妙さに何度救われてきたことか。まるで人の心を読んだかのようだ。とても年下とは思えないが、彼はまだ十代の少年なのだ。
 きっとすでに噂になっているのだろう。1年も地方をふらふらしてきて、戻ってはじめて書いた論文はしょうもないない内容だと。それは容易に想像できることだ。
 食欲なんてぜんぜんない。それでもラグナはうなずいた。
「うん……ちょうどおなかがすいてきたところです」
「でしょ?今日は食堂じゃなくて外に行こうよ。ルーアがラグナに会いたいって」
「嬉しい。私も会いたいです」
 そうと決まれば善は急げだ。
 ラグナは15分後に正門でフレイと待ち合わせの約束をして、出かける準備をはじめた。疲れ切った自らの姿を鏡に映し、とりあえず化粧くらいはしようかなと苦笑して。


 5領出身の料理人ルーアの店は、ちょっとおしゃれな薬膳料理が評判だ。
 なんでも、領地の半分を覆うリカードの森の奥で長く生活していたらしい。魔女みたい、とラグナが思わず感想をこぼすと、魔女だったったのよ、と微笑む。
 彼女のひととなりも料理もラグナは大好きだった。
「久しぶりねー。どうだった研究旅行は」
 食後にサービスで出してくれた甘い香りのお茶を、息を吹きかけて冷ましながら飲んでいると、ルーアが自分のお茶を持ってラグナの向かいに座った。相変わらずのつややかな長い黒髪がきれいだ。いきいきとしたくちびるが好奇心で溌剌と動く。
「楽しかった、です」
「そう。……あら、フレイは帰ったの?」
「ええ。授業があるそうです」
「真面目ねー。今年で卒業でしょ、この先どうするのかしら」
「たぶん、ここには残らないんじゃないかと」
「まぁ、そういうものよね……」
 ルーアは肩をすくめる。ラグナは曖昧に笑った。
 卒業しても学園に残る方が珍しいのだ。一生を学問に投じるなどよほどの酔狂か、はたまた暇を持てあました有閑層の道楽というのが世間様の印象なのだ。一般的には、学園を卒業したという事実だけで将来は安泰。故郷に戻りその発展に寄与するか、はたまた興味のある分野で活躍するか。そもそも、しかるべき年齢で学園へ通うということが、限られた者にしか与えられない特権なのだから。
 ラグナは迷い、残ることを決めた。同級生が卒業し、郷里に帰るなかで、ここに残って研究を続けようと決めたのは、決して生まれ育った場所に帰りたくないだけではない。ただ純粋に研究が好きで、その結果を残したいとつよく思ったからなのだ。
 ラグナが世の中から認めてもらういちばんの方法が研究だというのに。どうしてうまくいかないのだろうか。
「でなに?その歯切れの悪い口調は!行きたくて行ったんでしょ?」
「もちろんそうです。ただなんか最近うまくいかなくて、なんのために調査に行ったのかわからなくなってしまって……」
 情けない愚痴を、人に打ち明けるのはみっともないことだと教育されてきた。
 ラグナは語尾を濁して、話をそらす。
「そういえば、ルーアの故郷はちょうど花祭りでした。リリスの花がきれいでしたよ」
「ああ、その時期に行ったのね」
 思いがけずに思い出をひっぱり出されて戸惑ったように、けれどもすぐにルーアは懐かしそうに遠くを見た。
「懐かしいわ。ちいさいころから、花祭りがいちばんの楽しみだったのよ」
「あ、みなさんそうおっしゃっていました」
「でしょう?でも、あれってちょっと独特じゃない?あんまり賑やかじゃないし、ラグナは楽しくなかったかもね」
「そんなことないですよ。霧が濃い中で、遠いような近いような感覚で音楽が流れていて、ずっと夢の中にいるみたいで……。それなのに、私だけひとりってさみしかったくらいですかね」
「ずいぶん感傷的じゃない」
 そう声を出して明るく笑い飛ばした。
 恋人がいない行き遅れの25歳と幸せいっぱいの人妻では余裕が違う。私も誰かに大事にされたい。花祭りはラグナに強くそう思わせた。うすぼんやりとした淡い色になじむステップをひとりでは踏めず、ちょっと離れたところで5領の人々が行き交うのを見ていた。視界の悪い中で、となりを歩く家族や恋人とはぐれないように、しっかりと手を繋いでいる姿に胸がつまるような幸せを感じて、少し悲しくなった。
「お祭り自体は3領の鎮魂祭に似ていました。とてもリリスの花をいつくしむお祭りには見えなかった。楽しくて活気があるお祭りというよりも、懐かしくて大事にしたい過去の思い出みたいで……やっぱり、まだ何かあるような気がするんです」
「言われてみればそうだな」
 厨房の奥から、肩をぐるぐる回しながらロランが歩いてくる。ルーアの隣に座ると、納得したようにラグナに応えた。
「なんつーか、神秘的なんだよな」
「そうなんです。地元のひとたちの魔女の話が絡んでくるんじゃないかと思うんですが……うまく繋がらなくて……」
「ほらほら、一緒に考え込まない」
 呆れたルーアがぱんぱんと手を叩いて、空気を変える。ロランはルーアに気がつかれないよう、そっとラグナと目配せして微笑み合った。
「お久しぶりです、ロラン」
「ああ。相変わらずだなラグナ」
 そういうロランだって変わらない。そして変わらないのはそれだけではない。ラグナは勝ち誇ったように囁いた。
「賭けは私の勝ちのようですね」
「覚えていたか……まぁそういうことだ。もうすこし二人の生活を楽しむさ」
 むっとしたようにルーアが口を挟む。
「なにそれ、なんの話」
「言いだしたのはロランですから。彼に訊いてください。私、そろそろ戻らなきゃ」
 とは言っても、ほとんどその内容に察しはついているだろう。微かに頬の赤いルーアにラグナはにっこりと笑った。この夫婦に会うと、うらやましくてだめだ。
「おいしかったです!ごちそうさまでした」
 そう元気に言ったはいいものの、立ち上がった瞬間にはもうすべてが嫌になったいた。
 夫婦の気遣うような視線から逃げるように、ラグナはそそくさと扉を押しあける。もう春も半ばのくせに風は冷たい。



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