ルーアの店を出たころは、薄いグレーの雲がやさしく日差しを遮っていたのに、あっというまに霧雨にぬれるはめになってしまった。もともと雨の多い7領だが、最近は特にあわただしい天気で困る。
 ラグナは小走りに学園への道を急いだが、どしゃ降りというわけでもない。寝不足も手伝って、結局はぬかるむ道を歩き出した。見通しが悪く、ひとけのないまっすぐな道。学生のためのにぎやかな通りが、雨に溶けて崩れてしまったよう。ひっそりとしめっていて、ほんとうにこの先に目的地があるのかどうかすこしだけ不安になった。
 かなしい。天を仰ぎ、大きく叫んで、このままあおむけに地に倒れ込みたい。水分でわずかに重くなった髪さえ不快だ。手入れも行き届かないまま、背中を半ば覆うまでに伸びてしまっている。いっそ引きちぎってしまいたい。
 そんな衝動のままに行動できるはずもなく、中途半端なまま、道を間違うことなく結局は学園へ戻るのだ。この循環から、ほんとうに逃げ出したいとは思っていない。だからなにも変えられない。
「大丈夫?」
 だから、ふいに聞こえた声は幻聴と思い込み、眉をひそめた。大丈夫だって?そんなことを訊くなとと、ついに目を開けながら夢をみるようになった自分を嘲笑してやりたいくらいだった。
「まって」
 ぐっと腕を掴まれ、うまく右足を踏み出せなくなってはじめて、ラグナは自分の頭上に広がる傘に気がついた。はっと声の方を見る。
 線の細い男性だった。しかも、この顔はよく知っている。三日に一度は会っている。いつもの好印象な笑顔ではなく、焦ったようにひそめた眉にどきりとした。
「この雨の中、ずいぶん勢いよく歩いているからびっくりした。ええと…ラグナ?」
「……はい」
 名前を呼ばれて、反射的に返事をしてしまった。彼が自分を知っているということに驚いた。
 彼はためらいがちに、雨を輝かせる赤に近い瞳でラグナを見詰める。
「僕は図書館で司書をしている者なのですが」
「……は…?」
 何の確認なのかわからず、うなずいた後に首を傾げる。
「あ、僕のことは知っていましたか?」
「え……あ、もちろんです」
 図書館司書のサン。学園の中ではフレイと肩を並べる有名人。きれいに整った顔立ちに、やさしい雰囲気は誰からも好かれる。まだ自己嫌悪の沼から這い出せていないというのに、こんなに至近距離でいると、このシチュエーションも相まって心臓がどうかなりそうだ。
 とっさにラグナは目を逸らした。そもそもきちんと整っていない自分の身なりは、雨にやられてきっとひどい状態だ。失敗した。見た目のことでこんなに後悔したのははじめてだ。
「あ……いえ、あのいつもお世話になっています」
「いえいえ、僕なんて書物のふろくみたいなものですから」
 とりあえず学園まで帰りませんかと促され、ラグナは現実に引き戻された。さらさらと流れるような雨の音量が上がったような気がして、びくりと肩をすくめる。
 そしてラグナは気がついた。
「もしかして急いでいましたか?」
「まぁ、少しは。交代の時間があるので」
 苦笑しつつもあっさりと言われて、ラグナは慌てた。
「すみません。できるだけ急いで歩きますから!」
 それでも走った方が良いでしょうか?そう、続けようとしたが、それよりも早く、サンがラグナを見てにこりと笑った。おかげでラグナは言葉を発することができなかった。
「謝るほどのことでもありません。そんなにたいしたことではないし。ただ君が風邪をひかなければいいです」
 ラグナのための優しい言葉に、うっかりすがりつきたくなる。しかしそれはじっとこらえて、ありがとうございます、と言うに留めた。たまたま巡り合わせで、ひとつの傘で同じ道を歩くことになっただけ。なによりスマートで知的な彼に、馬鹿女だと思われたくない。
「……助かりました。お手数をおかけしてしまってたいへん申し訳ありません」
「いくつですか。まだ若いのにそんなかたくるしいこと言って。僕だって恩を売りたいだけなんで」
「えっ?」
 驚くラグナに、サンは苦笑した。
「いいじゃないですか。傘が手に入ってラッキー、でしょ?」
「でしょって言われても…」
「ちがう?」
「いえ、そう言われればそうなのかもしれないのですが……」
 恩を売るという言い方が気になって縮こまるラグナに、サンは雨も忘れる笑顔で言った。
「ね?」
 もう、ラグナは彼を直視できない。
 そうか、ここで運を使うために、いままでかわいそうなラグナだったのか。だったらそれも仕方ない。


 午後のラグナは午前よりはまだ落ち着いていた。
 時折、寝不足特有のふわっと現実離れした笑みで文字を眺めるくらいの逃避はあるが、がりがりに削られたはずの精神はずいぶんと復活しているようにフレイにはみえた。
 彼女の回復の原因は何だろう。
 ルーアではない。女同士のなぐさめは、すぐに威力を発揮するほど強烈なものではない。じわりと効いていく漢方のようなものだ。それにラグナは、自らのストレスをルーアにぶちまけるようなことはしないはず。言ってもせいぜいかわいらしい愚痴か。全く、育ちの良いことだ。
 つい今しがた、ラグナが研究のことを相談する相手といったら同じ教授のもとで研究しているクライスしかいないと思い当たり、フレイは彼の研究室に遠慮なく、扉をたたくこともせずに入る。すると、予想通りにラグナがいたのだ。
 フレイが研究室に入ってきても、ラグナは全く気がついていなかった。彼女は『存在が先か言葉が先か』についての論文ばかりを集めた本を、クライスの隣に座って眺めている。
 たしかに興味深い内容だ。とある国では、緑色のことも青というらしい。言葉によってその存在は区切られている。しかし、そもそもの存在がないと区切る必要もなくなってしまう。しかし言葉がないとその存在は、肯定されず存在しないことになってしまう。しかし存在がなければ区切ろうとも思わないはず……この堂々巡りである。
 きっぱりできないものを、思いのほか嫌うはずのラグナにとって、わりと苦手な分野のはず。
「ラグナ」
「…フレイ、いつの間に?」
「さっき。ね、それって面白い?」
 『それ』が論文集を指すことに気がついて、ラグナは少し首を傾げた。
「いえ……でもたまには違うものも読んでみようかなと思って」
「そうなんだ。ラグナはどっち派なの」
「……」
 ああだめだ。これはどっちでも良い派だ。すぐにフレイは気がついてちいさくため息をついた。
「なんで私、これを選んじゃったんでしょうね」
「さぁ?目につくところにあったとか」
 クライスは好きそうだし、このテーマ。
 ラグナは納得して、二つ隣の椅子に座るクライスに水を向ける。
「クライスはどっちだと思う?」
「……言葉だ」
 こちらも見ずに、彼は言った。そりゃそうだろうと、フレイは肩をすくめた。
 それにしても、どうして二人は同じ研究者として、同じ方向を見ることはできるくせに、お互い向き合おうとしないのだろう。
 飽きることなく、朝から晩まで研究を続ける彼らの絆は兄弟のそれであって、男女としてではない。きっとラグナはそう言う。しかしフレイには茶番にしか見えなかった。
 馬鹿だな、クライス。フレイは胸中で毒づいた。顔はかなりいいのに、無口だから肝心の想い人には伝わらない。それどころか、自分の想いさえきちんと確認しないからいつも機を逃す。はじめの一歩が遅すぎる。だから彼の恋愛は肝心なところでうまくいかない。気にしていない女の子にアプローチされるばかりだ。
 フレイは手近なところにあったクライスの論文を座って読み始めた。ラグナの研究室よりもずっと広い。もともとあった長方形のテーブルや本棚をそのまま活用しているため、研究室というよりは自習室のようで、事実クライス以外の学生や研究者がこの部屋で研究をする姿も珍しくはない。
 愛想のないくせに人望のあるクライスの研究室には、おなじ研究者や学生が集まる。たぶん、他人の論文よりも、各地の資料や事実から地に足をついた仮説を立てるところ。そのくせたまに夢みたいな説を言いだすところ、それがなかなか侮れないところ。そして専門分野を超えて、経済や歴史などにも強い。
 本人はどう思っているのかわからないが、彼は頼られる存在なのだ。
「ちょっと元気になったよね。ルーアと話せてよかった?」
「ええ、フレイのおかげです。ありがとう」
「…いや」
 言いかけて、フレイは結局口をつぐんだ。
「ラグナ、あんまり寝てないんだから、根詰めないで今日は家に帰ったら?」
「でも…」
 ラグナはちらりとクライスを見る。自分の研究を、まかせきりにしてしまっても良いのだろうかと考えているに違いない。
 クライスがラグナの視線に応えるように顔を上げた。
「かまわない。問題点を書きとめておけば良いか?」
 ラグナはほっとしたように微笑んだ。
「ありがと。じゃあ今日は戻るね」
「ああ。気にするな」
「そうだよ、気にすることないよ」
 皮肉っぽく響くフレイの声にわずかに顔を顰めながらクライスがいいからと促す。
「また明日くるね」
 そう言って、足音も軽く彼女は部屋を出て行った。
 その後ろ姿を確かめるように目で追った後、ふたたび論文を読み始めながらクライスは年長者らしくフレイに忠告する。
「おまえは課題を片づけなくていいのか」
「大丈夫。僕のことより自分のことを心配しなよ」
 何を言っているんだこの男はと、フレイは肩をすくめた。
「俺の?」
「そう。事態はゆるやかに進行してる。現状にあぐらをかいているクライスの方がよっぽど心配」
「……なんの話だ」
「別に」
 フレイのため息の理由を、クライスは知ろうともしない。
 



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